ニッポン維新(119)民主主義という幻影―5

アメリカで議会のテレビ中継が議論されたのは1970年代半ばです。きっかけはベトナム戦争の敗北とウォーターゲート事件による大統領の辞任でした。

泥沼にはまり込んだベトナム戦争を終らせるため1973年1月にニクソン大統領は「終戦」を宣言し、アメリカ軍はベトナムから撤退を始めました。そのニクソン大統領が翌74年にウォーターゲート事件で辞任に追い込まれます。

世界最強を自負してきたアメリカが戦争に敗れ、国民から選ばれた大統領が秘密工作に関わって辞任する。アメリカ国民にとって両方とも建国以来初めての出来事でした。アメリカは深刻な政治不信に見舞われます。共産主義との戦いは正義ではなかったのか。アメリカ政治の何が間違っていたのか。失意の底から生まれたのが「サンシャイン・リフォーム」と呼ばれる「政治改革」でした。

 ベトナム戦争に踏み切ったのはペンタゴンやCIAの情報を信じたためだとアメリカの政治家たちは考えました。そしてウォーターゲート事件は政治の裏側に秘密工作がある事を国民に示しました。「見えないところに腐敗は生まれる。日の光(サンシャイン)に当てれば腐敗は生まれない」。「情報公開」が改革の主眼となりました。

 情報公開法が制定され、官庁は情報公開を義務付けられました。国会議員だけでなく官僚も裁判官も資産公開を義務付けられました。議会は独自の情報収集機能を強化して官僚の情報に頼らない態勢を作りました。それらの延長で議会審議をテレビで公開する事も検討されました。しかし「ポピュリズム」に陥っては困ります。

 長い議論の結果、本会議場の議論だけを議会が独自に撮影し、その映像をテレビ局に提供する事になりました。テレビ局はそれを編集してニュースに使う事が出来ます。1979年にまず下院で法案が成立しました。しかし満場一致ではありません。四分の一の議員は「ポピュリズム」を懸念して反対票を投じました。

パフォーマンスの上手い議員に有利になる。パフォーマンスを気にすればまともな政治など出来ない。それが反対の理由でした。しかし任期が2年で常に選挙を考えている下院議員は任期が6年の上院議員より国民に自らをアピールする必要を感じています。下院先行になったのはそのためでした。

ところが州の代表であり外交案件や政府の人事に力を持つ上院ではなかなかテレビ公開を認めませんでした。認めたのは下院が決めてから7年も後の事です。アメリカではそれほど「ポピュリズム」の弊害が警戒され、「ポピュリズム」にならない事が実証されなければ認められないのです。

一方で70年代の後半はアメリカに新しいメディアが誕生しました。ケーブルテレビの登場です。それまで地上波テレビはスポンサーが支払うCM料金を収入源として無料で家庭に放送されていました。ところがケーブルテレビは有料放送で30チャンネルを束ねて見せる仕組みです。地上波が視聴率重視であるのに対し、ケーブルテレビは専門放送の多彩さを売り物にしました。その中に視聴率と無縁のチャンネルがあってもおかしくはないのです。

ケーブルテレビを利用すれば視聴率を気にせずに議会を無編集で放送する事が出来る。議会が公開されていればベトナム戦争は起きなかった。そう考える男が現れました。その男は地上波テレビに挑戦するシンボルとして「議会中継専門チャンネル」の実現をケーブルテレビ業界に提案しました。

1979年、その男ブライアン・ラムは「アメリカの民主主義を強くする」テレビ局C-SPAN(シー・スパン)を誕生させます。その放送哲学はまったく日本の「国会中継」とは異なるものでした。しかしその放送哲学が10年後にイギリスにも議会中継を実現させる事になるのです。(続く)