ニッポン維新(93)国民主権を阻む壁―8

1998年7月の参議院選挙で自民党は惨敗、再び深刻な「ねじれ」が復活しました。橋本龍太郎政権は総辞職し、国会の首班指名選挙では衆議院で自民党の小渕恵三氏、参議院では民主党の菅直人氏が総理に選ばれました。「ねじれ」を象徴する一幕です。こうして誕生した小渕政権は「ねじれ」に苦しみました。

時あたかもバブル崩壊後の金融危機の真っ只中です。日本長期信用銀行の経営危機が表面化し、日本の金融破綻が世界経済の足を引っ張る懸念がありました。選挙後の臨時国会は「金融国会」と呼ばれ、金融再生のための法案成立が急がれました。しかし「ねじれ」のために小渕政権は自前の法案を成立させる事が出来ません。民主党の「金融再生法案」を丸飲みし、また「金融早期健全化法案」では自由党の協力を得なければなりませんでした。

野党側に政権交代の意欲があれば、小渕政権を解散総選挙に追い込むチャンスでした。ところが民主党の菅代表は「政局にしない」事を表明し、政権交代に追い込みたい自由党との間に亀裂が生まれました。一方で防衛庁の不祥事から額賀福志郎防衛庁長官の問責決議案が参議院で可決され、額賀長官は辞任を余儀なくされました。これは自民党にとって大衝撃です。

もしも総理大臣に対する問責決議案が参議院で可決されれば、野党は参議院の審議に総理が出席する事を認めません。法案は1本も通らなくなります。政権は総辞職か解散に追い込まれる事になります。「ねじれ」は政権にとって万事休すなのです。

自民党は本格的に連立を模索しはじめました。政権交代を目指さない民主党の姿勢に失望していた自由党の小沢一郎代表は、自民党と連立する事で自分たちの要求を実現し、政治を変える道を選びます。野中広務官房長官が「悪魔にひれ伏してでも」と言って小沢氏にひれ伏し、一方の小沢氏は連立の条件として数々の「改革案」を自民党に呑ませました。

大臣を役所の意のままにさせないための「副大臣制」や英国議会の「クエスチョン・タイム」を真似た「党首討論」を導入し、衆議院議員を20人減らす定数削減などが自自連立によって実現しました。ところが自民党は公明党にも手を伸ばし、自自公連立となって自由党の要求を呑まなくとも政権運営を可能にしました。

このため自由党の小沢代表は連立政権からの離脱を決め、再び自由党は野党に転じます。その際、与党に残りたい自由党の議員たちが保守党を結成、自公保の連立政権が生まれました。このあたりは全く国民が参加出来ない政治の動きです。国民はただ眺めているしかありません。

自由党が連立離脱を決めたその夜、小渕総理は病に倒れ、帰らぬ人となりました。小渕総理の後継にはいわゆる「5人組による密室の協議」で森喜郎氏が決まります。国民の手の届かないところで政治が動かされる事に国民の不満が爆発しました。森総理には「日本は神の国」などの舌禍事件もあり、わずか1年で退陣を余儀なくされました。

森総理の後を受けた小泉純一郎総理は「自民党をぶっ壊す!」と叫び、自民党を「抵抗勢力」と位置づける事で政権交代が起きたかのような錯覚を国民に与えました。それまでの政治に飽き飽きしていた国民は細川政権以来の「政治の変化」を感じて熱狂します。内閣支持率は80%を越え、小泉旋風は社会現象となりました。しかし国民の人気とは裏腹に政界での力は万全ではありません。そこから小泉マジックが始まります。(続く)