「国民生活第一」が聞いてあきれる“平成の棄民”

田中康夫衆院議員寄稿 東日本大震災記
3月20日、南相馬市役所で再会した桜井勝延市長は語りました。「東京電力から、誰も訪れて来ません。電話一本、有りません」と。
南相馬市は、東京電力福島第1原子力発電所が位置する大熊町や双葉町と異なり、東電関係の原発交付金=原子力発電施設等立地地域特別交付金を1円も受け取っていません。“飴”とは無縁の自治体なのです。
が、市内の一部が30km圏内に掛かり、市全域の住民は「屋内退避」を政府から求められます。実測値の放射線量は、原子力安全・保安院や東京電力スタッフが「避難」した福島市の約3分の1にも拘らず。
「屋内退避を続けよ。但し、食料・物資は自己調達せよ」と矛盾に充ちた“鞭”を打たれ、運送会社も“被爆”を怖れ、何も届かぬ“平成の棄民”状態に留め置かれたのです。地震発生2週間後の25日に至って、枝野幸男官房長官は「命令」「勧告」ならぬ自主避難「要請」会見を行います。
「国民の生活が第一。」とは対極な、「避難指示を出せば住民の移動に多額の費用が掛かる。自主避難なら少しでもコストダウン出来る」発言を政府関係者から引き出した「共同通信」は、「首相も官房長官も安全な場所で学芸会の様に騒いでいるだけ」と被災者の慨嘆を同日付で配信しました。
直感力・洞察力、決断力・行動力を兼ね備え、潔き出処進退の覚悟も有する指導者の下、手続に拘泥する民主主義でなく、成果を編み出す民主主義を、我らが日本に根付かせねば!
東北地方太平洋沖地震発生の3月11日に時計の針を戻します。骨盤と脚骨の間の軟骨が摩耗し、左足を引き摺っていた僕は次年度当初予算が衆議院通過後の2日、金属製人工股関節を填め込む手術を受け、選挙区の尼崎市で入院中でした。兵庫県立尼崎病院の建物も長時間揺れ続けます。
病室で点けたTVには程なく、津波が名取川を“逆流”し、田畑や家屋、車両を呑み込むヘリコプターからの映像が映し出されます。若しや、阪神・淡路大震災を遙かに上回る大災害ではないか。胸騒ぎを覚え、即座に退院が叶わぬ自分の体調を恨みました。
新党日本が与党統一会派を組む国民新党の下地幹郎幹事長と連絡を取り、2点を官邸に提言しました。
災害対策基本法に基づき、NHKラジオ第2は福島・宮城・岩手・青森の県域毎にライフラインの情報に徹せよ。NHKが関東広域放送の茨城では、ラジオ単営の茨城放送に人員・経費を投入すべきと。
TVは被災地以外の視聴者向けに情緒的「報道」を繰り広げ勝ち。他方、神戸が本社のラジオ関西は地域密着型情報提供を続け、信頼を得ました。地震発生4日後に大阪で50ccバイクを買い求め、後部座席のプラスチック箱とリュックサックに物資を詰め込み、半年余り、避難所やテント村、仮設住宅を“御用聞き”として回った16年前、38歳の記憶が蘇ります。
併せて、飲料・食料、毛布、防寒着、手動式充電ラジオ、充電済み携帯電話等を梱包した物資袋を、低空飛行の自衛隊ヘリコプターから集落毎に投下を。有効な初動対応の筈です。
が、実行されませんでした。法律で禁止されている、義務付けられている、と平時には国民に強いる行政機関は、一旦緩急の際には、前例がない、と躊躇するのです。前例がない事態たればこそ、民主主義を護る為に踏み出す消防隊や自衛隊の気概とは対極です。
2日後の13日、亀井静香代表が菅直人首相に4項目を提言しました。
日本共産党も含めた全党3役クラスが震災対策本部に参画し、機動的決断を。救援に当たる陸海空自衛隊3隊の陣頭指揮を統合幕僚長が現地で。仮設住宅と用地を10万戸単位で確保せよ。国、自治体に加えて経団連傘下企業も1社10名の緊急雇用を。
家族も住居も職場も喪失した今回、最後の提言こそ肝要です。経済同友会や連合も各社、単組で応じ、首相と財界、労組の指導者が合同会見に臨み、嘗ては世界屈指だった太陽光関連の事業所を被災地で展開すると発表したなら、国民に勇気と希望を与えます。
なのに、1つとして実行されず。切歯扼腕し、医師の許可を得て退院を早め、杖を片手に19日深夜、トレーラーとワゴン車にスタッフと分乗。東京から先ずは仙台へと向かいます。沖縄1区選出の下地氏の下へ、ミネラルウォーターや黒糖飴を満載のコンテナが、災害に毎年直面する沖縄の方々からフェリーで到着します。僕も資生堂の池田守男相談役に頼み、1週間以上も風呂に入れぬ被災者の為にドライシャンプーを調達。
営業所2ヶ所が水没し、トラック70台が流された仙台市若林区の大衡運送で、複数の2トン車に積み替えます。足立盛二郎副社長の陣頭指揮下、被災地の日本郵政グループ事業所が地域集落で展開する被災者支援の物資を補給すべく。
津波で壊滅状態の同区荒浜地区を通過し、民間金融機関はATMも含めて全てシャッターを降ろす中、窓口業務を唯一続ける相馬郵便局に到着したのは20日14時過ぎ。自ら志願下さった大衡運送の青年が運転するトラックは、津波の痕跡も生々しい国道6号線を更に南下します。冒頭の述懐を桜井市長から聞いたのは夕刻でした。
翌21日昼、普段は大手町や表参道の街角でエスニック味の無添加弁当を販売するアジアンランチと連携し、炊き出し2000食を旧相馬女子高の避難所で敢行。都合6種類の料理から2品を選択頂き、ヴェトナムの米麺フォーが入った丼に盛り付けます。10日振りの温かい食事。被災地に於いても、お仕着せの支援でなく、自分で料理を選び、味わい、喜びを分かち合ってこそ、活力を得るのです。
巨大電機メーカーが暴力団系組織を暗躍させ、建設を企てた産業廃棄物最終処分場計画に一市民として敢然と闘い、昨年1月、市長に就任の桜井氏とは10年来の知己。その彼が「屋内退避」指示を知ったのは東京発のTVを通じてでした。政府と県から「連絡」が有ったのは地震発生6日後。僕がメールで伝えた官邸直通電話に“直訴”し、松本龍防災担当大臣が19日に短時間訪れます。
が、同行のマスメディアは皆無。公共放送のNHKも逸早く南相馬駐在記者を「避難」させ、取材は地元紙の記者のみでした。全国紙が現地入りして報ずるのは24日付紙面からです。
その24日に「各党・政府震災対策合同会議」で質しました。福島第1原発の内部を日本政府の要請を受けて24時間態勢で米空軍の無人偵察機「グローバルホーク」が上空から撮影した、「車のナンバーが読み取れる程に鮮明」な映像を、米軍は公開も認めた上で日本側に提供と19日付「毎日新聞」が報じたにも拘らず、分析結果すら国民に報告しないのは何故、と。翌日の回答は、「機密保持の観点から解像度を下げて公開する事も検討」でした。「情報公開」を掲げて実現した政権交代が泣きます。
東京電力の「説明責任」も、“木で鼻を括る”醜状です。2002年、炉心部ひび割れを隠蔽した歴代トップ4名が総退陣後、東電社長に就任し、経団連副会長をも務めた勝俣恒久氏は電力事業連合会会長だった06、07両年、柏崎刈羽、福島第二で連続発生の重大事故を公表せず、データ改竄をも黙認しました。今回の炉心溶融、無計画停電の遠因を生み出した人物です。
なのに、取締役会長に留まる彼は黙して語らず。直撃取材のマスメディアも寡聞にして知りません。地震発生時、“側近”が毎年企画する中国「視察」旅行に複数のマスメディアの編集幹部が勝俣氏と参加していた“負い目”でしょうか? 或いは、取材現場さえも東電の「接待」攻勢に“感電”したのでしょうか?
原発群に隣接の福島3区選出の玄葉光一郎国家戦略担当大臣は25日、「今、大切なのは東京電力への批判でなく、決死の作業員を日本国民全員で激励し後押しする事だ」と奇妙な“一億総懺悔”論を会見で展開しました。
太平洋戦争時も今回も、最前線の人々は純粋で一生懸命。が、その真心と責任とは別物。“ノーブレス・オブリージュ”の欠片すらない政官業の指導者では、日本再興は夢物語です。
とまれ、出来る事を出来る人が出来る場で出来る限り。その哲学を抱き、行動し、発言し、行動する。微力ながら、今週末も被災地に入る僕の覚悟です。