ニッポン維新(182)09年政権交代を総括するー10
09年の総選挙は民主党が「米国との自由貿易協定締結」をマニフェストに掲げた事で、「日本の農業が壊滅する」と農協が自民党の全面支援に回りました。すると農協に恐れをなしたのか、菅直人副代表はマニフェストにある「締結」を後退させ、農協に妥協的な姿勢を見せようとして小沢幹事長からたしなめられました。
それを見て私はマニフェストの歴史的な意味を民主党は本当に共有しているのかと疑問になりました。マニフェストは選挙に勝つための道具ではありません。この国の在り方を問い国家の目指す方向を切り拓くものです。それが民主党内部で理解し共有されていないのではないかと思ったのです。
戦後日本の農業政策には歪みがありました。農業大国アメリカからの穀物輸入に頼り、農業を育てるより公共事業のバラまきで農家を保護する政策を行ってきました。そうした政策の中枢にいたのが農協です。民主党のマニフェストは農協ともどもその構造を転換させようとしていました。ところが農協が猛反発すると菅氏は選挙に不利になると思ったのか、マニフェストを修正しようとしたのです。
後に菅氏はマニフェストにない消費増税を突然主張し国民の期待を裏切りますが、これも自民党の「バラマキ批判」に耐え切れずに増税路線に転じたように思います。政治には戦略的に一歩後退が必要な時もありますが、民主党の変節には戦略よりその時々の批判に迎合するところがあります。その体質が政権獲得の前から現れていました。
ともかく09年総選挙は民主党の圧勝に終わり、国民は戦後初めて自らの一票で政権交代を果たしました。すると民主党内に小沢幹事長を政策決定に関わらせまいとする動きが出てきます。「党と政府の一体化」では幹事長が副総理として入閣する事になっていましたが、それを阻止する動きが始まったのです。「小沢氏は選挙のプロだが政策には関心がない」と言う噂が流され、小沢氏に「選挙屋」というレッテルが貼られました。党内の声に押されたのか鳩山総理は小沢氏を副総理として入閣させませんでした。
民主党の「政治主導」は政治家が大挙して閣内に入り、官僚と政治家が一体となって政策を遂行するものです。竹下政権の官房副長官として官邸の中枢にいた経験があるのは小沢氏ぐらいですから、小沢氏が入閣しなければ官邸は素人だらけになります。結局、民主党の「政治主導」は、大臣、副大臣、政務官の「政務三役」がチームとして政策遂行に当たる形になりました。わずかな数の「政務三役」が政策をひねり出そうと悪戦苦闘する様を見て官僚たちは滑稽に感じていたと思います。
小泉政権以降、日本にはパフォーマンスを重視するポピュリズム型の政治が続いていますが、鳩山政権とそれに続く菅政権はまさにパフォーマンス政治そのものでした。事務次官会議を廃止して官僚依存からの脱却を演出し、事業仕訳と称して官僚の作った予算の無駄を削減するパフォーマンスを繰り広げました。いずれも意味が全くないとは言いませんが、現実にどれほどの効果があったのかは疑問です。少なくも私にはただのパフォーマンスにしか見えませんでした。
野党となった自民党の民主党批判は「財源の裏付けがないバラマキ政策」という一点でした。確かにマニフェストを実現するための財源を作るには、事業仕訳程度の予算の削減パフォーマンスでは捻り出せません。大幅な予算の組み替えが必要です。しかしそれは容易なことではありません。既得権益と血の雨が降るような戦いをしなければなりません。
第一の課題は国と地方の二重行政の無駄に手を付ける事です。それは明治以来の中央集権体制をひっくり返す大事票で、それをやり切れるのは政治の裏を知り尽くす小沢氏を置いて他にいないと私は思っていました。しかし小沢氏は入閣出来ず、パフォーマンスに明け暮れる政治によって民主党政権は財源をひねり出す事ができませんでした。さらに鳩山総理は普天間基地の移設問題で迷走を始めるのです。(続く)