(89)国民主権を阻む壁―4

「ポツダム政令」という言葉をご存じでしょうか。ポツダム宣言を受諾して第二次世界大戦に敗れた日本はGHQ(連合国軍総司令部)の支配下に置かれましたが、GHQは日本の政府・官僚機構を温存して利用する「間接統治」の形を取りました。GHQの日本に対する要求は政府に伝えられ、政府はそれを命令の形で国民や官僚機構に伝えます。これを「ポツダム政令」と言います。いわば日本を支配する側から発せられる「天の声」です。

占領期の片山、芦田、吉田と続く内閣は、いずれも参議院の無所属議員、つまり貴族院の伝統をついで「政党政治に抵抗する意識」を持った議員勢力に苦しめられました。重要法案はことごとく成立せず、片山・芦田両内閣はいずれも短命に終わりました。長期政権を続けた吉田内閣も、「ポツダム政令」の力を借りなければ重要法案を成立させる事は出来ませんでした。

戦後、初めて行われた選挙は1947年4月20日の参議院選挙です。当選した250名のうち108名が無所属議員でした。参議院は貴族院の伝統である「政党政治に対抗する院」の性格を色濃く残してスタートします。4月25日には衆議院選挙が行われ、日本社会党が第一党となり片山総理が誕生します。しかし社会党は参議院だけでなく衆議院でも過半数に達しておらず、民主党、国民協同党との間で連立が組まれました。

しかしこの連立は衆議院で過半数に達しただけで、参議院では過半数に足りません。参議院で過半数を得るために連立を組む現在から見ると考えられない連立政権です。従って法案成立は極めて困難でした。竹中治堅著「参議院とは何か」によれば、それが国の行政組織のあり方にも極めて大きな影響を与えました。

戦後の日本に労働者の諸問題を扱う労働省が新設される事になります。片山内閣が労働省設置法案を提案し、労働省の組織編成を内閣が決めようとしました。すると参議院の「緑風会」が国会の統制に服すべきだと主張し、法案が修正されました。それが前例となり、次の芦田内閣が提案した国家行政組織法案も、行政組織の内部部局をすべて国会が決める形に参議院で修正されます。このためわが国では省庁が内部組織を変えるのにいちいち国会の承認を得なければならない面倒な事になり、それが1983年まで続きました。

吉田内閣は参議院の緑風会から大臣を起用するなど、参議院の協力を取り付ける工作に力を入れました。しかしそれでも法案成立は困難でした。1948年、GHQは経済安定9原則を提示し、政府はそれを具体化しようとします。それが野党だけでなく参議院の抵抗に遭いました。国鉄を含めた行政府の職員数を24万人削減しようとして逆に2千人増員する修正案を飲まされました。

食糧の供出を強化する法案は参議院で審議の引き延ばしに遭い廃案になります。そこで吉田内閣は「ポツダム政令」の形でこれを実現します。この様に国会で法案が廃案になると吉田内閣は「ポツダム政令」として公布する方法を採りました。電機事業再編成法案や公益事業法案も「ポツダム政令」によって公布されました。

吉田内閣にはGHQという後ろ盾があったからこそ長期政権を続けることが出来た訳です。そうでなければ参議院で過半数を確保しない限り、政権運営は極めて難しいのが日本の二院制です。そしてGHQによる日本占領が終わると、国会で廃案にされた法案を「ポツダム政令」によって公布する方法も採れなくなります。衆参の「ねじれ」を解消しない限り政治は安定しない構造に日本は直面します。

日本が独立する2年前から公職追放が解除され、追放されていた政治家たちが続々政界に復帰してきました。吉田茂氏は元々公職追放に遭った鳩山一郎氏の代わりに自由党総裁として政界入りした経緯がありますが、鳩山氏が政界復帰したことで吉田対鳩山の対立が激しくなります。政治の混乱は自由党の吉田内閣が総辞職し、民主党の鳩山内閣が誕生するまで続きます。

そして民主党と自由党の保守合同により自由民主党が誕生してはじめて戦後の日本政治は安定の方向に向かいます。それも保守合同だけでは自民党は参議院で過半数に達していません。1956年7月の参議院選挙で議席を124に伸ばし、12月の補欠選挙に勝利してやっと念願の過半数を獲得します。

こうして33年後の1989年の参議院選挙に敗れるまで自民党は「ねじれ」の悩みから解放され、政界は「ねじれ」の怖さを忘れるようになりました。二院制の問題は自民党内部の問題となり、総理がいかに参院自民党の協力を取り付けるかという話になりました。総理が参院自民党の実力者に頭を下げなければならない事から、実力者は「天皇」とか「法皇」と呼ばれるようになりました。(続く)