ニッポン維新(167)情報支配―17

日本の民間テレビは70年代半ばにすべて新聞社の系列に組み込まれました。それによって言論の多様性と相互批判は失われ、メディアに対する国の管理も強まりました。先進民主主義国には見られないメディアのかたちが出来たのです。それが80年代に入るとさらに世界とは異なる道を歩み出すようになりました。

70年代の終わりからアメリカにはケーブルテレビが普及し始めます。従来の電波のテレビとは異なり線でつながるケーブルテレビは、それまでがテレビ局から家庭への一方通行であったのを双方向に変え、さらに100近い多チャンネル放送を可能にしました。

双方向が可能なケーブルテレビ局は電話事業にも乗り出しました。独占状態だった電話事業に競争が生まれ、電話料金はみるみる引き下げられていきます。それがインターネットを家庭に普及させるインセンティブになり、アメリカにはIT革命が花開きました。

また、それまでのテレビには様々な制約が課せられていました。その第一が「フェアネス・ドクトリン(公平の原則)」です。テレビの影響力は強く、しかもどの家庭にも入り込むので、賛否が分かれる問題は必ず両方の意見を放送する事が義務付けられていました。

しかしケーブルテレビは加入するのも、チャンネルを選ぶのもすべて消費者の自由です。本屋で本を買うように個人が選択する世界なのです。そこでケーブルテレビの内容は国が規制すべきではないと考えられました。そのため従来のテレビにはないポルノチャンネルやゲームチャンネルや宗教チャンネルなどが登場し、多彩なチャンネルの世界が生まれました。

その頃、アメリカにスリーマイル島の原発事故が起きます。人類が初めて経験する原発事故に対し地元のテレビ局は「原発反対」の番組を放送しました。これが「フェアネス・ドクトリン違反」として社会問題になります。

すると婦人団体が「フェアネス・ドクトリンは憲法で保障された言論の自由を侵害する」と訴訟を起こし、連邦最高裁判所は「フェアネス・ドクトリンはチャンネル数が少なかった時代のもので、多チャンネル時代にはそぐわない」と判決しました。これによってテレビに課せられていた「フェアネス・ドクトリン」はすべて撤廃されたのです。

こうして80年代のアメリカでは、多彩な情報を国民に提供する事がメディアの主流になりました。ところがそうした流れが日本に上陸しそうになると、日本ではそれを阻止しようとする勢力が出てきます。

大新聞社は「波取り記者」を使って系列化を進めてきた地方テレビ局の経営を脅かされると考えました。アメリカでは「三大ネット」と言われるようにテレビの全国ネットワークは3つしかありません。ところが日本では朝日新聞社の意向を受けてネットワークが5つに増えました。

そのため地方局も各県最低4つは必要とされ、それがスポンサーの奪い合いとなって地方局の経営を苦しめていました。ケーブルテレビが参入すればますます経営が厳しくなると考える大新聞社は、ケーブルテレビの普及を遅らせようと新聞社同士で共同戦線を張りました。

またNHKは日本で唯一の有料放送局でした。広告放送の民放テレビとは経営的に競合しないので共存共栄が可能です。ところがケーブルテレビは有料放送です。それが普及すれば視聴者にコスト意識を植え付けます。NHKの受信料と同じ料金で何チャンネルが見られるか、そこから「受信料を下げろ」という運動が起きかねません。

郵政省はケーブルテレビの普及を遅らせる様々な規制を法律に盛り込みました。それによってケーブルテレビがアメリカと同様の革命的変化をもたらす事はなくなりました。しかしある郵政省幹部は「本当はケーブルテレビを普及させたかった」と私に語りました。それが出来なかったのは「自民党の先生方を動かした勢力がいたからだ」と言うのです。  

その勢力とは大新聞社とNHKでした。こうして80年代に多様性を求めて変化した世界の中で日本だけは既存メディアの力が強まっていくのでした。(続く)