ニッポン維新(115)民主主義という幻影ー1

東日本大震災直後に行われた与野党の党首会談で「復興税」構想が話し合われた事に私は驚きました。自民党の谷垣総裁も菅総理も財務大臣経験者ですから財務官僚の影響を受けている事は想像できますが、日本経済が大打撃を受けている時に真っ先に国民から税を取る話をする神経は官僚そのものです。

そして民主党の岡田幹事長も「安易に国債発行すべきでない」と発言しました。この発言にも私は違和感を覚えました。いかにも官僚好みの言葉だからです。無論、国家が「安易に」借金をすべきでないのはその通りです。しかし未曾有の大災害に襲われた時に政治が考えるべきは国民生活をいかに守るか、経済の落ち込みをいかに防ぐかです。

そのために国民生活に負担をかけない方法で日本経済を上向かせる「懸命の」努力が必要です。これまでの日本は「安易に国債発行」してきたかもしれませんが、国難とも言えるこの時期に行なう国債発行は「安易」ではなく「必死」の策である筈です。国家を経営するというのはそういう事です。企業が不意の打撃に襲われれば経営者は借金をしてでも、それを元手に再建を考えます。しかし官僚に経営者の感覚はありません。

予算を使い切る事だけを考える官僚には「利益を上げる」感覚がないのです。経営者は「利益を上げる」ために必死の努力をしますが、官僚にとって税金は努力しなくとも入って来る収入の道です。それが最も「安易」で「楽」なのです。しかし災害に襲われ、経済が落ち込む時に増税をすれば消費は冷え込み、経済は失速します。

一方で国民は被災者と苦しみを分かち合おうという気になっています。応分の負担を覚悟しなければならないと考えます。官僚はその心理につけこもうとしているのです。今なら国民は増税を受け入れると考えています。官僚らしい悪巧みです。しかし「茶の間の正義」にとらわれて増税を受け入れれば日本経済全体が失速し、被災者を助ける事も出来なくなるのです。

震災直後に石原東京都知事が「こんな時に田中角栄がいたらなあ」と発言しましたが、意味するところは震災からの復興に田中角栄的な経営者の知恵が必要だという事です。ところが官僚を使いこなさなければならない政治家が官僚と同じ思考に陥ってしまっている事が与野党の政治家の発言で分かりました。これでは官僚機構だけが肥え太り、国民生活は苦しくなります。

考えてみると日本には官僚の論理に毒された政治家が多い事に気づきます。例えば「政局よりも政策」と言う政治家たちがいます。政策を考える政治家こそが本物で、政局にうつつを抜かす政治家は国民のためにならないという意味です。

一見もっともらしく聞えますが、これなど官僚の論理そのものです。政策を考えるのは政治家だけではありません。どこの国でも政策立案は学者や官僚の仕事です。その政策を議会で立法化する仕事は政治家にしかできません。そのためには反対者を説得し、賛同者の数を増やさなければなりません。一部を修正する必要が出てくることもあり、場合によっては内閣を倒して政権交代しないと実現しない場合もあります。

つまり政治家の仕事は政策を実現するために駆け引きをしたり、権力闘争をするところにあるのです。ところが政策立案を官僚が独占している日本では、官僚は自分たちの政策をそのまま実現しようとします。その時に国民の意向を聞いた政治家が立ち塞がったり、駆け引きされるのは面白くありません。それが「政局よりも政策」という言葉になり、政治家らしい政治家を排除しようとするのです。

この官僚の論理を政治家たちが言うのですから、官僚と一体化した政治家がいかに多いかと言う事になります。しかしこれほど民主主義を無視した話もありません。戦後の日本は「民主化された」と言われますが、日本の民主主義が本物かどうかは極めて疑問です。私は日本は「民」主主義ではなく「官」主主義だと言ってきましたが、なぜそんな事になってしまったのか、日本政治の底流にある深層心理を考えてみます。(続く)