(80)アメリカという権力―6

歴史的な政権交代によって誕生した鳩山政権がわずか8ヶ月で終りました。普天間問題を巡る迷走で国民の支持を失ったからです。国際社会は日本の総理がアメリカと国民との板挟みにあって辞任したと見ています。鳩山総理はいわばアメリカという権力に敗れたのです。

鳩山総理の祖父である鳩山一郎氏は戦後すぐ総理になるはずでした。ところがGHQの追放に遭い、その座を外交官上がりの吉田茂氏に譲りました。吉田総理は1952年に日本が独立すると、アメリカと日米安保条約を結びます。軍事をアメリカに委ねる事にしたのです。追放を経て政界に復帰した鳩山氏はこれに反対し、再軍備を主張して吉田総理と対立しました。「日米安保か再軍備か」で争われたその年の総選挙は吉田派の勝利に終わり、以来、日米安保体制が日本の外交の基軸になりました。

吉田総理が日米安保条約を結んだ背景には朝鮮戦争があります。アメリカは朝鮮に出撃するため初めて海外に基地を持ちました。それが在日米軍基地です。また補給の必要から日本の工業力を再生させる事にしました。ジョージ・ケナンの「ソ連封じ込め」戦略は、ヨーロッパでは西ドイツを、アジアでは日本を「反共の防波堤」として豊かな国家にする事にします。

アメリカの敵国だったにも関わらず西ドイツと日本は間もなくアメリカに次ぐ経済大国に成長しました。冷戦のお陰です。よく日本人は勤勉だから戦後の復興を成し遂げたと言われますが、それは正しくありません。冷戦があり、「ソ連封じ込め」戦略があり、朝鮮戦争とベトナム戦争があったからこそ日本は驚異的な経済成長を成し遂げる事が出来たのです。少なくもアメリカはそう考えています。

従って日本経済がアメリカにとって脅威になると、アメリカには「安保ただ乗り」論が出てきました。自分の国を守る努力をせず、アメリカに安全保障を押しつけて、せっせと金儲けに励んだ日本がアメリカの産業を衰退させている。日本は製品だけでなく失業を輸出しているという批判です。

1971年、日米関係に大きな転機が訪れました。アメリカのニクソン大統領は金とドルとの交換停止を一方的に宣言し、日本の頭越しに中国と手を結びます。いわゆる「ニクソン・ショック」です。これはベトナム戦争で財政危機に陥ったアメリカが「封じ込め」戦略を転換した事を意味します。1ドル360円の固定為替レートがなくなり、円高が始まって日本経済は打撃を受けました。同時に米中が手を結んだことで「反共の防波堤」としての日本の価値も減少します。

これより前1964年に誕生した佐藤政権は「沖縄返還」に力を入れました。ニクソン政権はその足下を見ます。アメリカ南部の綿花業者のために日本の繊維製品の対米輸出規制を求めてきました。日米繊維摩擦が始まり、最終的に日本は明治以来の基幹産業である繊維産業を転換させます。国が繊維業者の機械を買い上げ、その資金で繊維業者は化粧品産業などに活路を求めていきました。

さらにニクソン政権は返還の見返りに航空機の購入(これが後にロッキード事件となる)や返還費用の肩代わりなどを求めてきました。これらの交渉は秘密裏に行われ、「密約」を暴いた新聞記者は逮捕されます。非道い話です。アメリカにすれば中国と手を結ぶためにも「沖縄返還」は好都合です。そして返還後もそれまでと同様に沖縄の米軍基地を使用できれば何の実害もありません。日本政府は「核抜き本土並返還」と言いましたが、実際は返還前も返還後も米軍基地は何も変わりませんでした。結局、日本政府は「非核三原則」を建前に国民を欺き、日米関係は表と裏のある欺瞞に満ちたものとなりました。

繊維摩擦以来、自動車、半導体など日米経済摩擦は激しさを増していきました。アメリカ議会では「スーパー301条」など対日報復法案が次々に作られて日米関係は「戦争」の様相を見せ始めました。しかし当時の日本はかなりしたたかでした。アメリカに叩かれ続けながら、表面上は譲歩しても実はしっかり取るというやり方で、日本経済はその後も成長を続けました。

本来は「ニクソン・ショック」の時に、日本はそれまでの日米関係が終わったことを認識し、日米安保体制と輸出主導経済体制で歩んできた戦後を見直し、次のシナリオを用意しなければならなかったのかも知れません。しかし余りにもうまくいった戦後の成功体験に日本は酔いしれていました。それまでと違う生き方など考える事も出来ませんでした。ところがそれも1985年までです。上昇し続けてきた日本に一時のバブルと長い凋落が待ち受けていました。(続く)