(81)アメリカという権力―7

1985年は象徴的な年です。世界第一位の経済大国アメリカが世界最大の借金国となり、世界第二位の日本が世界最大の債権国になったのです。日本は輸出で稼いだ金を海外に貸し付け、さらに金利を稼ぎます。マネーがマネーを生み、日本は世界最大のマネー大国になりました。

そこでアメリカの反撃が始まります。85年秋のプラザ合意で200円台だった円ドルレートが100円台に切り上げられ、さらにアメリカは日本の金利を低く抑えるよう圧力をかけてきました。円高で打撃を受けた輸出産業の救済を名目にゼロ金利政策が始まりましたが、これで世界のマネーは金利の高いアメリカ市場に向かうことになりました。

そしてアメリカは日本に内需拡大を強く求めてきます。政府は輸出で稼いだ金を株と土地に向かわせる事にしました。まず「外国企業用のオフィスビルが足りない」という理由で政府が東京湾ベイエリアの再開発を奨励し、それを皮切りに日本各地でリゾート開発が始まりました。アメリカの内需拡大要求に沿って取られた政策です。これが地価高騰に火を付けました。

さらに政府は財政赤字の穴埋めという理由で、中曽根内閣が民営化した電電、国鉄、専売などの株式を高値で売却する事にしました。その背景にもアメリカの要求があります。アメリカ企業は株式市場から資金を得て事業を行う「直接金融」ですが、日本企業は銀行から融資を受けて事業を行う「間接金融」でした。言い換えればアメリカ人は貯金の金利より株の配当益を求め、日本人は株を持たずに貯金に励んできました。それをアメリカが批判してきたのです。政府の後押しで株の売買がブームとなりました。

アメリカから低金利と直接金融を要求され、競争が激しくなった銀行は土地投機に活路を見出そうとしました。再開発という名の「地上げ」には暴力団が介入し、いつしか暴力団に弱みを握られた銀行は、無担保で莫大な資金を融資させられるようになります。それが巨額の不良債権を生み出しました。

危機感を抱いた大蔵省は不動産業界への融資を停止する「総量規制」に踏みきり、日本のバブル経済は一気に終息します。しかしそれは日本に大きな傷跡を残しました。それからの20年、日本の政治と経済は「失われた時代」を迎えるのです。しかも、時を同じくして戦後日本経済の躍進のきっかけとなった「冷戦」が終わりました。アメリカは日本を味方と思う必要も面倒を見る必要もなくなりました。それどころか日本をソ連に代わる「脅威」と位置づけ、「仮想敵国」扱いを始めたのです。

リビジョニストと呼ばれる人たちが日本に対する見直し作業を始めました。日本の構造分析をしてどこに弱点があるかを探りました。私はこの時期にアメリカ議会が作成した「日本経済の挑戦」と題する報告書を手に入れ、それを持って政治家や官僚にアメリカにどう対応すれば良いかを尋ねて歩きました。ところが驚いた事に政治の世界は「金丸事件」を契機に「政治とカネ」の議論に終始し、誰も冷戦の終わりなど意識していません。霞ヶ関も同様でした。

91年8月、冷戦が終わって最初の戦争が起こります。イラクがクエートに侵攻したのです。アメリカもイギリスも議会を開き、どう対応するかを議論しましたが、日本だけは10月まで国会を開きませんでした。橋本大蔵大臣がアメリカにどれだけの資金を援助すれば良いかを打診し、それが決着した所で初めて国会が開かれました。

この日本の対応をアメリカは呆れて見ていました。日本経済にとって死活的に重要なのが中東の石油です。資源のない日本にとっては「命綱」です。ところが中東で起きた深刻な事態を日本は自分の問題として考えない。国会すら開かないでアメリカにひたすら依存してくる。世界一の債権国である日本を「大国」と見ていたのは間違いだった。所詮はアメリカの従属国なのだ。アメリカに日本侮蔑の感情が生まれました。(続く)