(87)国民主権を阻む壁―2

戦前の帝国議会はイギリス議会と似た仕組みで、国民から選挙で選ばれる衆議院と世襲の貴族院とで構成されていました。貴族院議員には皇族、華族、そして学識経験者と高額納税者が互選で選ばれ、任期は衆議院の4年より長い原則7年でした。

衆議院が民主主義を代表し政党政治を行なうのに対し、貴族院は天皇を補佐する君主主義の立場で、政党政治に対抗する意味で不偏不党、一人一党主義を主張していました。予算の先議権は衆議院にありますが、権限において衆議院と同格とされ、民意をチェックする役割を担ったのです。

これより前、薩長藩閥政府は天皇の権力を絶対化し、官僚政治で国を治めようとしましたが、これを不満とした自由民権派は民選議会の開設を求めて政府と対立、同時に農民一揆や士族の反乱なども起こり、国内の不満を抑えるために政府は憲法を制定して議会開設に踏み切らざるを得ませんでした。

明治22年に大日本帝国憲法が発布され、23年には帝国議会が開かれますが、しかし官僚政治を続けようとする薩長政府は民権派の力が増大する事を警戒しました。議会開設の前年に黒田清隆内閣総理大臣は「超然主義」を唱え、議会が何を決めても政府は「超然として」無視する事を宣言します。

そうした中で出来た貴族院の役割は選挙で争う政党とは一線を画す事でした。世襲貴族が中心となり、互選で選ばれた学識経験者や高額納税者も政党に入党すれば議員を辞めなければなりませんでした。無所属であることが貴族院議員の条件だったとも言えます。

わが国には今でも政党政治を「党利党略」として蔑む風潮があります。外国のメディアは当然の如く政党支持を明らかにしますが、わが国のメディアはみな「不偏不党」を看板にして政党色が付くことを嫌います。こうしたところに戦前の貴族院の影響が残っていると私は思います。

戦前の官僚権力は国民の意のままにすれば国は滅びると考えました。従ってその歯止めとなる貴族院は保守的な立場をとります。戦前に衆議院が可決した婦人参政権や労働組合を認める法案など進歩的法案はすべて貴族院で否決されました。

貴族院は大日本帝国憲法が廃止された1947年(昭和22年)まで続きますが、この間に多数の内閣総理大臣を排出しました。初代総理の伊藤博文から大隈重信、高橋是清、近衛文麿などを経て吉田茂まで33人の総理のほとんどは貴族院議員出身者です。国民の選挙で選ばれた衆議院議員から総理になったのは1918年(大正7年)に総理に就任した原敬が最初で、あとは浜口雄幸と犬養毅の2人だけです。

戦後、日本国憲法の成立によって貴族院は廃止され参議院が出来ました。実はGHQが示した憲法草案には貴族院を廃して民選の一院制にすると書かれてありました。これに強く反対したのが幣原内閣で憲法改正の担当大臣であった松本丞治です。彼は元々勅撰の貴族院議員でした。貴族院議員の性格から国民が選んだ民選議員に任せては国が危うくなると考えたかもしれません。

彼はGHQに対して衆議院をチェックする第二院の必要性を力説しました。GHQは第二院も衆議院と同様に選挙で選ばれる民選議員とする事を条件に松本の主張を認め、参議院が誕生しました。問題は参議院の性格と強さです。GHQは選挙で選ばれれば民主主義的になると思ったかも知れません。しかし出来たばかりの参議院には貴族院が持っていた性格が色濃く残りました。そこから何とも悩ましい政治構造が生まれるのです。(続く)