(82)アメリカという権力―8

湾岸戦争に対する日本の資金提供は1兆円を超える巨額なものでした。それが戦争を支えた事はまぎれもない事実です。ところがご承知のように日本は全く感謝される事はありませんでした。人的貢献が無かったからだと言われています。しかし当時ワシントンに事務所を構え、米国議会を取材していた私はそのように受け止めておりません。

大統領に戦争権限を認めた議会の議論では確かに多くの議員が「アメリカの若者の血を流す前に中東から利益を得ている日本にもっと貢献させるべきだ」と意見を述べていました。しかし同時に巨額の資金提供を有り難がっていた事も事実です。さらに日本には憲法の制約があり、海外派兵できない事も彼らは知っています。実際、日本の自衛隊が現地に派遣されても行動は制約されます。それよりも金の方が戦争には役立ちます。

ただ当時の日本は世界一の金貸し国でした。世界一の借金国のアメリカは日本からもっと金を搾り取れると思ったかもしれません。日本に出来ないことを要求すればさらに金を引き出せると考えたかもしれません。そして戦場に息子や娘を送り出している国民に対しては「日本を叩く」事が効果的なパフォーマンスでした。それが「ショウ・ザ・フラッグ」とか「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」とかの言葉になりました。一方で「血を流す貢献をしろ」と言われると平和憲法を持つ日本は黙り込むしかありません。

日米経済摩擦でさんざん煮え湯を飲まされてきたアメリカは、日本の弱点が安全保障問題にあることを湾岸戦争で実感しました。冷戦中に「安保にただ乗り」されて日本の金儲けを許してきたアメリカは、それを逆にして「安保で日本から金を搾り取る」事を考え始めたのです。

一方、日本経済の異質性を分析してきたアメリカは、日本が戦前に作られた「国家総動員態勢」を戦後も引き続き温存し、官僚を中心にした「政官財」のトライアングルが経済を成長させてきたと結論づけます。クリントン政権は「大蔵省、通産省、東京大学」を「日本の三悪」と呼びました。官僚主導が日本を悪くしたという批判です。戦後アメリカがあからさまに日本を批判したのはこれが初めてでした。

米国議会では日本が資本主義とは異質である事が指摘され、大蔵省を司令塔として自民党と企業とが一体となって輸出に励んできた構造が説明されました。すると議員から「戦後の日本をそのような構造にしたのはアメリカではないか」との質問がありました。戦後の日本を官僚主導にし、中でも大蔵省に中枢権力を与えたのは他ならぬアメリカだという指摘です。

誰からも反論はありませんでした。戦後の日本を作ったのがアメリカである事は議員達の共通認識でした。しかしそれがアメリカにとって不都合になれば、アメリカの都合の良い構造に作り替えれば良い。それも彼らの了解事項でした。

大蔵省がアメリカによって「日本の三悪の一つ」と断定されてから3年ほどして、東京地検特捜部が大蔵省の「接待汚職事件」を摘発しました。狙いは大蔵省の現職キャリア官僚を逮捕する事です。造船汚職事件で福田赳夫氏を逮捕して以来のキャリア逮捕に検察は乗り出しました。マスコミには「ノーパンしゃぶしゃぶ接待の実態」と「接待を受けてきた官僚リスト」がリークされました。検察のいつものやり方です。摘発対象がいかに「ワル」であるかを国民に衆知させてから捜査に入れば、検察は常に「正義の味方」として支持されるからです。

それまで官僚の中の官僚としてマスコミの批判の対象にならなかった大蔵省はこれで権威が地に堕ちました。産経新聞の司法記者を長く務めた石塚健司氏は、その著書「特捜崩壊」(講談社刊)で事件は全くの「でっち上げ」だと指摘しています。結果として30代のキャリア官僚が人身御供として逮捕され、大蔵省は財務省と金融庁に分割され、大蔵省の天下りポストも法務・検察官僚に奪われました。

これを機にアメリカが戦後日本の中枢権力と位置づけた「大蔵省の時代」は終わりました。同時にマスコミの「官僚叩き」が始まり、戦後日本の官僚主導体制はアメリカの都合の良い構造に代えられていきます。その役割を果たすべく登場してきたのが「小さな政府」を標榜し、「自民党をぶっ壊す!」と叫んだ小泉純一郎総理大臣でした。(続く)